2020年10月25日 私はあなたの祭壇の周りを歩きます
主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます。感謝の声を響き渡らせて 語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。
主よ 私は愛します。あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を。 詩篇26:6~8(1〜12)
《非難・誹謗の中で 1~3節》 あらぬ誤解を受け、身に覚えのない非難を被ることは
珍しいことではない。
一度ひろまった汚名を雪ぐことは難しい。友も離れて行き、頼るべき者も背を向ける。
この詩の作者は、「主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます・・・主よ 私は愛します。
あなたの住まいのある所 あなたの栄光のとどまる所を」(6~8節)と、
神の宮に参じて礼拝をささげることを切望している。
そのことから、詩人は、その礼拝から追放されかねない立場に追い込まれていたと思われる
(申命記17:2~13参照)。
今や、我が身の潔白を証明してくださるのは神おひとりしかおられないと、彼は自分の生き方と神への
信仰の二つを吟味してくださるようにと訴える。
もちろん彼は、主イエスが喩えで指摘なさった、自分の義を誇ろうとしたパリサイ人の祈り
(ルカ18:11~12)のようなことを主張しているのではない。
「誠実な歩み」とは、ノアが神とともに歩んだ「全き人」「(創世記6:9)と同じ語で、
完全無欠を意味せず、罪を犯しても気づけばただちに悔い改めて神に立ち返るという信仰者の姿勢を指す。
詩人は、自己を吟味した上で、自分は他の神々に心を寄せることもなく、真の神への信頼に生きて来たと言う。
それは彼の「心の深み(はらわた)」までも、「調べ」「試み」「精錬」とよくよく審査して下されば
わかることと、熱く訴える。
そこにはすでに孤独孤立の影は消え、「あなたの恵みは 私の目の前にあり あなたの真理のうちを
私は歩み続けました」(3節)と、感動している。
今や孤立無援の、祭壇から拒絶された罪人ではなく、恵みに生かされている嬉しさを味わう。
《祭壇の周りを 4~8節》 そして改めて、彼は自分の立ち位置を確認する。
第一に、「私は不信実な人とともに座らず偽善者とともに行きません。
悪を行う者の集まりを憎み悪しき者とともに座りません」(4~5節)と、宣言する。
時代が悪いのだからと言い訳し、その風潮に便乗するような無責任な姿勢を、詩人は拒否する。
人々が神を侮り、信仰を小馬鹿にしようが、彼はなお一層のこと信仰に精進し、
「手を洗い 自らの潔白を示し」、「主よ 私はあなたの祭壇の周りを歩きます」(6節)と、
礼拝に参加する。
そして、祭壇の周りを歩む少数の敬虔な者のひとりであり続ける。
礼拝をいち早く終えて即座に帰るのではない。
祭壇の周りを時間をかけて巡り歩きながら、我が身に起きた「あなたの奇しいみわざのすべてを」(7節)を、
詩人は喜びの感謝で賛美せざるを得ないのである。
四面楚歌であった詩人は、現実は未だそうであっても、すでに彼の心は神という盤石の隠れ家を得ている。
もう恐れることは無い。
私たちキリスト者は、御子の犠牲によって神の恵みに与り、「あなたがたのからだは、あなたがたの
うちにおられる、神から受けた聖霊の宮」(Ⅰコリント6:19)と言われる特権を与えられている。
その立場から、祭壇の周りを喜びながら巡り歩く詩人の姿に勝る礼拝を、私たちはささげたいものである。
《罪人と区別して 9~12節》 詩人は最後に祈る。
神を蔑ろにする者たちの歩みに組せず、神を仰ぐ誠実な歩みを続けられるようにと。
4~5節で、詩人は、空しいものを求め、籾らのような人生を送っている「不真実な人」、
本来の自分を隠す「偽善者」、「悪を行なう者」たちの仲間には断じてならないとの決意を記している。
悪どもたちは「人の血を流す者ども」で、「悪事(悪い企み)」を「手にし(実行し)」、
「賄賂に満ち」た右手でそれを実行している(9~10節)。
詩人は、ここで「どうか私のたましいを罪人どもとともに私のいのちを人の血を流す者どもとともに
取り去らないでください」(9節)と、悪者どもと一緒に私を見捨ててしまわないように、と神に嘆願する。
詩人は、彼らとは断じて組せず、たとえ細々としてでも信仰者にふさわしく「誠実に歩みます」と
決意を表明し、このような悪い世と共に、私を一緒に見捨てないでください、と祈る。
もう、詩人の心はふらつかない。神の確かな御手の中に置かれている自分を覚えて感謝する。
「私の足は平らな所に立っています。数々の集いで 私は主をほめたたえます。」(12節)と。
これが私たちの姿でもある。