2020年11月1日 私の一つの願い

一つのことを 私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り 主の家に住むことを。

主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために。  詩篇27:4(1〜14)

 27篇は、神への信頼を喜ぶ前半(1~6節)と苦難からの救出を懇願する後半(7~12節)に、

確信と希望の結び(13~14節)の3部の構成になっている。

神への信頼は、それが揺るがされるような苦難の谷を通過することによって深められる。

 《一つの願い 1~6節》 詩人ダビデは「一つのことを 私は主に願った。

それを私は求めている」と言う。あれもこれもと欲張って、何が大事でどれが不要か

わからないような生き方を望まない。

「私のいのちの日の限り 主の家に住むこと」が、彼のただ一つの願いである。

目的は、「主の麗しさに目を注ぎ その宮で思いを巡らすために」(4節)だと言う。

成功、名声、権力、富などが望みではない、

神の幕屋に住んでいつも神を想い神に仕えることである。

彼にとっての神は、頼み事をして叶えてもらい、助けてもらうだけではなく、

一緒に暮らしたいと願う相手であった。

旧約の信仰者たちは、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。

私は悪の天幕に住むよりは 私の神の家の門口に立ちたいのです」(詩篇84:10)とも歌う。

悪人の豪奢な家で贅を尽した食卓に着くよりも、神の家の門番のほうが望ましいと。

彼らの望みは、御子キリストの贖いを通して叶えられた。

御子を信じる者はみな、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

(マタイ28:20)との保証を与えられている。

なぜ、そのように聖なる神、義なる神のそば近くに暮らすことが、聖徒たちの望みなのか。

「それは 主が苦しみの日に私を隠れ場に隠し その幕屋のひそかな所に私をかくまい 

岩の上に私を上げてくださるから」(5節)である。

親鳥が、子鳥を敵の目から匿い安全な場所に保護するように、神は、「私を取り囲む敵の上に

高く上げられる」(6節)からだ。

「私の肉を食らおうと 悪を行う者が私に襲いかかったとき 崩れ落ちたのは私に逆らう者

私の敵であ」り、「たとえ 私に対して陣営が張られても 私の心は恐れない。

たとえ 私に対して戦いが起こっても それにも私は動じない」(2~3節)と言えた。

ダビデは自分の歩みを振り返えると、神が敵のすべての手から守られたことを確認し、

神への感謝と賛美をささげざるを得ない(Ⅱサムエル22:2~7)。

救い主と共に歩むことは、安心と勇気と希望の中に暮らすことを意味する(ルカ24:32、ヨハネ16:33)。

 《苦境にあっても 7~11節》 信仰者の平安な営みが、一転して苦悩の中に落されることも稀ではない。

ダビデは今、「待ち伏せている者ども」や、敵意を抱く「偽りの証人ども」の暴言を浴びている(11~12節)。

6節までの敵が、イスラエル周辺諸国であるとすれば、この個所での相手は、義父サウル王や実子アブシャロムや、

かって苦楽を共にした部下たちであるとすれば、ダビデの苦悩は深い。

侵略者などの外敵にはいささかも動じなかった勇将ダビデも、同胞が相打つ争いや、

親子が敵味方となる戦いに際しては、心は鈍る。

考えに考えても思いはまとまらず、混乱は募り、苦悩は増すばかりである。

そんな苦しみの中で、ダビデは神を仰いで呻く。

「聞いてください 主よ。私が呼ぶこの声を。私をあわれみ 私に答えてください」(7節)と。

さらに、「あなたに代わって 私の心は言います」(8節)、つまり「あなたのお言葉が告げています、

『わたしの顔を慕い求めよ』」と。

ですから「主よ あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか 御顔を私に隠さないでください。

あなたのしもべを 怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。見放さないでください。

見捨てないでください。私の救いの神よ」(8~9節)と神に懇願する。

また、彼は言う。「神よ。あなたは、『私の父 私の母が私を見捨てるときは

私を取り上げてくださ』(10節)る方ですね」と語って、「そうだ、その通りだ」と安心する。

 《待ち望め 主を 12~13節》 ダビデは、ここで一息つく。

「もしも 私が生ける者の地で主のいつくしみを見ると信じていなかったなら」(13節)

どうなっていたことか。

しかし今、神よ、あなたのいつくしみを確信できました。恐れることは無い。

この苦悩からも、神は最善の形で解放してくださるに違いない。

さあ、「神を信頼し、その解決に期待しよう。神を待ち望もう」と、立ち上がる。

信仰者の前途は明るい(詩篇84:4~7参照)。