2020年11月8日 我らを携え導いてください

どうか御民を救ってください。あなたのゆずりの民を祝福してください。

どうか彼らの羊飼いとなって いつまでも彼らを携え導いてください。 詩篇28:9(1〜9)

 《神への嘆願 1~4節》詩人ダビデは今、死の淵に立たされている。

原因は定かではない。疫病により多くの者が倒れ、その危機がダビデにも迫っていたとの推測もある。

「どうか悪者や不法を行う者どもと一緒に私を引いて行かないでください。

彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです」(3節)と、

悪を企む者たちの餌食になりかけている事態からの救出を願う言葉から、彼が、

息子アブシャロムの反乱で窮地に立たされた際のことではと思われる。

 ダビデは、「彼らの行いとその悪にしたがって彼らに報いてください。

その手のわざにしたがって彼らに報い、その仕打ちに報復してください」(4節)と、訴える。

「彼らに報い、報復してください」との言葉は、個人的な思いや都合から仕返しを求めているのではない。

神の公平な審判が下されるようにとの願いである。

「隣人と平和を語りながら その心には悪がある」連中の企みが成功し、

「あなたに助けを叫び求め・・・私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げ」(2節)て祈っている私を、

彼らと「一緒に・・・引いて行かないでください(かたづけないでください:3版)」(3節)と、

正義の裁決を求める訴えである。

 神の前での自分の正しさを主張できる者は誰もいない。

悪人と義人の違いは、神は排除して自分の思うままに生きる者であるか、それとも罪を悔いて神の許しを願って

神に祈り求める者であるかの違いである。

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)とあるが、神に義とされているか否かの違いは決定的である。

信仰者は、ダビデのように、違いを主張し、自分が神に義とされ愛されていることを自覚し、

神の前に堂々とその立場で生きて行く者である。

私たちは、窮地に立たされる時だけに限らず、数々の願いを絶えず抱えている。

主イエスは「何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます」(ヨハネ15:7)と言われた。

それらを神に求めるなら、神は最善の形で私たちの願いを実現させてくださる。

だから「自分たちの心を、両手とともに、天におられる神に向けて上げ」て祈ろう(エレミヤ哀歌3:41)。

パウロも「どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」(Ⅰテモテ2:8)と勧めている。

ダビデにとって、神はのっぺらぼうの、抽象的な漠然とした神ではない。

耳も口もあり、すべてを見通す目もある方である。その方の耳に願いを届かせ、その口から答えを得るまで、

「主よ 私はあなたを呼び求めます。わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください」(1節)と祈り続ける。

祈りがその耳に達しないなら、自分は「穴に下る者どもと同じに」なる危機に迫られているのだから。

 《祈りの確信と感謝 5~9節》 ダビデの祈りは一晩中続いたのだろうか。

不安から一転し、「ほむべきかな。主。主は私の願いの声を聞かれた」(6節)と、彼は賛美の声を上げた。

依然として、問題はそのままだが、神の介入を確信し、歓喜する。

悪を企む「彼らは、主のなさることも御手のわざをも悟らないので、

主は、彼らを打ち壊し建て直すことはされません」(5節)と、彼は断言する。

最初は、神の耳を引っ張るようにして訴えたダビデだが、「主は 私の力私の盾。

私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。私の心は喜び躍り、私は歌をもって主に感謝しよう」(7節)と

踊り出している。

そして、窮地の彼を助け、苦難を共にようと忠誠を尽くす仲間に、「主は、彼らの力」(8節)でもあるとねぎらう。

 祈りを聞かれたダビデの視野は、さらに広がる。

危機の脱出を喜んで終わず、今後も、「あなたのゆずりの民を祝福してください」と祈り、

「どうか彼らの羊飼いとなっていつまでも彼らを携え導いてください。」(9節)と願う。

信仰とは、都合の良い時も悪い時も、神の御手に万事を委ね、信頼して従い続けることだ。

問題に直面した時、人は何に解決を求めるだろうか。

病には医者や薬を、経済面では支援可能な人を、と人や物に助けを仰ぐ。

だが、ダビデは、何を置いても先ず、「主よ 私はあなたを呼び求めます」(1節)とひざまずき、

「わが岩よ どうか私に耳を閉ざさないでください。私に沈黙しないでください」(1節)と神に懇願した。

身近な人々に助けを求めて断られ、方々に尋ね聞いたが解決に至らず、他に方法がないので、

仕方なく神に頼む、と言うのではない。

私たちも、「神を第一に仰ぐ」というダビデの信仰に倣おう。