2020年11月29日 わが神 主よ
あなたは私のために 嘆きを踊りに変えてくださいました。私の粗布を解き 喜びをまとわせてくださいました。
私のたましいが あなたをほめ歌い 押し黙ることがないために。
私の神 主よ。私はとこしえまでも あなたに感謝します。 詩篇30:11,12(1~12)
《御怒りは束の間》病苦は人生につきものである。
だが、健康な時には、人はまさか自分が死の境を彷徨(さまよ)い、廃人同様の無力で哀れな状況で
死の恐怖に曝されることになるなどとは夢にも思わない。
危うく九死に一生を得て、元に戻った時の世界が、何と生気に溢れて輝いて見えることか。
水一口飲むのも困難であった喉に、心地よく通る水の甘さに感動し、自由に動き回れる身の軽さに驚く。
これまで目に留まらなかった事柄にも気づく。
飲み込もうと開いている死の穴の恐怖の前にした時、詩人は、自分が築いてきた財も名声も無力、
医師や薬にも限界のあることを知る。
ただ神のみが最後の希望であることを痛感し、「聞いてください。主よ。
私をあわれんでください。主よ。私の助けとなってください」(10節)と、神に懇願した。
信仰者が遭遇する苦難は、みな神の許しの中で与えられ、罪への懲らしめ(箴言3:11、へブル12:6)と、
訓練のための試練(申命記8:5、へブル12:11)のためである。
この詩の作者は、病を神の怒りの刑罰と受け止め(5節)、悔い改めて神の許しを乞い、回復を嘆願し、
赦しと癒しを経験した。
苦難の中ではその日々は長く感じるが、振り返ると短い。「まことに御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある」(5節)。
神は「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださ」(Ⅰコリント10:13)る方であり、
信仰者は、神の怒りに震え、神の恩寵に感動する。
回復した今、詩人は「主よ あなたは私のたましいをよみから引き上げ 私を生かしてくださいました」(3節)と
御名を崇めて感謝する。
ひとり神を賛美するだけでは足りず、信仰の友にも癒された喜びと神の不思議な恵みの力を証しをし、
神への賛美に加わるようにと呼びかけている(4節)。
《自分を振り返ると》詩人は病を患う前に、「私は決して揺るがされない」(6節)と、
健康という恵みを頂戴していたのに、まるでそれが当然のことと思い上がっていたことを反省する。
神がその恵みの御顔を隠されると、詩人は暗闇と病苦の苦難の中に立たされた(7節)。
死の恐怖に怯えながら、懸命に「主よ あなたを私は呼び求めます。
私の主にあわれみを乞います・・・聞いてください主よ。私をあわれんでください 主よ。
私の助けとなってください」(8~9節)と懇願した。
癒された今、「あなたは私のために嘆きを踊りに変えてくださいました」(11節)との
恵みの結末に浴することが出来たのであった。
試練や懲らしめは、それを神からのものとして信仰をもって受け止める者に反省を促し、
神に立ち返る契機を与え、神の祝福に与って、神への感謝と信頼という霊的な果実を結ばせる。
《私の神、主よ》昔イスラエルの民は、エジプト軍に紅海に追い詰められ時、
「いったい何ということをしてくれたのだ」(出エジプト14章11節)とモーセに詰め寄った。
しかし、海を二つに分けた神の救出に与って、「イスラエルは、主がエジプトに行われた、
この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」(同書31節)。
神が全能で万物の支配者であり恵み深い方であることを、出エジプトの事件にに与る前でも
民はすでに信じていたはずである。
だが、その事実を、頭で認識していただけに止まらず、身をもって経験することで、
神はまさにその通りの御方であるとの信頼は深まる。
この詩の作者も、神の大いなる恵みに浴し、神を自分との関係で、「私の神、私の主」と二度も親しく呼びかけ
(2、12節)、神に対しての全幅の信頼を寄せている者であることを表明している。
信仰は、信じがたい状況の中でもなお信じ、期待し、神の約束への希望を持ち続けることである。
なお信じ続けられるのは、以前の神との関りで、「あの時に、私に応じてくださった私の神は、
この場合も私を助けてくださるに違いない」との判断を促し、神への信頼の道を進ませる。
神は、遠くにおられる観念的な神ではなく、生ける私の神、私の主である。