2020年5月10日 幸いは主に身を避ける者へ

恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ震え子に口づけせよ。主が怒りおまえたちが道で滅びないために。

御怒りがすぐにも燃えようとしているからだ。幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。 詩篇2:11~12(1~12)

 詩篇の2篇は、天上の主に対する地上の王たちや権力者たちの態度が詠われている。

神が委任した王に従うことが神に従うことである。

この王は、来るべきメシヤ、神の国の王キリストを指し、彼を信じる者こそ幸いだと教えている。

 《神とメシヤと諸王たち》この地上世界には、異邦の国々もイスラエルの民もこぞって喚きたてるシュプレヒコール、

「さあ彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き捨てよう」(3節)が響き渡っている。

「彼ら」とは、万軍の主なる神と、神に油を注がれて王となったダビデやソロモンを指す。

それと二重に、神と神に遣わされ神の国の王として君臨なさるキリストをも預言している。

地上の民と王たちは、神に逆らい、神に立てられた王の統治を、「彼らのかせ、彼らの綱」、神の拘束と見做して反抗し、

神の支配からの解放を叫んでいる(エレミヤ2:20参照)。

「かせ」は牛や馬への「くびき」、「綱」は鋤や荷車につなぐ綱を指す。神の秩序を否定した人間は、物欲と情欲、

支配欲と虚栄心と競争心の虜となって暴走する(ローマ1:24)。

神が任命された王の意向を無視した王たちは、利害を争って戦いを繰り返し、諸民族は隣人に犠牲を強いても

己の経済的贅沢や優越感を満たそうと喚き、「騒ぎ立ち、空しいことを企む」(1節)。

人間は、大宇宙に浮かぶ一片の埃のような地球の、そのほんの一部に陣取るわずかな寿命の存在に過ぎない。

その人間が、地球の何層倍もの巨大な星々の何千億もが浮かぶ壮大な宇宙の創造主であり永遠を司る神を侮り、

身の程知らずの高ぶりと愚かな言動を繰り返している。まさに滑稽な姿としか言いようがない。

「天の御座」(4節)とは、その広大な天と地の万物、大小の一切を統治する座を指す。神はそこ座して、地上の人々が

神の支配の枷を外し、神の正義と公平を踏みにじっていることに、「激しく怒って、彼らを恐れおののかせ」(5節)る。

「主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かであ」(詩篇103:8)り、放蕩息子が罪を悔いて帰り来るのを

待ち続ける忍耐深い方である。

だが神の寛大にも限界がある。神は正義の神でもあり、その義を貫くために怒りをもって人間の不義と傲慢さを打ち砕く。

「わたしが、わたしの王を立て」(6節)、逆らう者に断固とした審判を下す。神の前に立たされれば、人は皆、

「私はあなたに、ただあなたの前に罪ある者です。私はあなたの目に悪であることを行いました」(詩篇51:4)という他ない。

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)、メシヤ(油を注がれた)王の前に立つ資格もない。

 《メシヤの到来と祝福》神が王に告げられた言葉(7~9節)は、イエスにおいて成就した。彼のバプテスマの際、天から

「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と声がり、復活の後に「わたしには天においても地においても、

すべての権威が与えられています」(マタイ28:18)と宣言され、今は神の右の座にあって全世界の王として世々に渡って

統治しておられる(エペソ1:20~21)。

メシヤは、陶器師が不出来な器を壊してしまうように、神に反抗し罪を重ねる人間をその鉄の杖で砕く。

罪ある者は恐怖に慄くしかない。

しかし、何と幸いなことか。このメシヤを信じて仕えるなら、主の怒りによって「おまえたちが滅びない」(12節)

と告げられた。

神が遣わされるメシヤは、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが

私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされ」(イザヤ53:5)る、と預言されていた

イエス・キリストである。

彼は、私たちの罪をご自分の身に引き受け、身代わりの死を引き受けてくださった。神の支配に反抗し、勝手に生きて来た

罪を悔い改め、救い主イエスを信じる者は、赦される。

「それゆえ今」(10節)、神に逆らっている者は、神の御怒りに会う前に、直ちにおののきつつ震え、イエス・キリストに

口づけし、仕えることだ(11節)。

人間の幸いは、誰の助けも必要としない強さや問題のない状況にいることでもない。

苦しみや悲しみがあろうとも、それら一切を左右おできになる栄光の王、キリストに身を避けている人である(12節)。

信仰の決断を引き伸ばしてはならない。

「御怒りが、すぐにでも燃えようとしているからだ」(12節、へブル3:15)。