2020年6月7日 主が私の泣く声を聞かれたから

不法を行う者たちみな 私から離れて行け。主が 私の泣く声を聞かれたからだ。

主は 私の切なる願いを聞き 主は 私の祈りを受け入れられる。

私の敵が みな恥を見ひどく恐れおののきますように。  詩篇6篇8~9節(1~10節)

 この第6篇は、伝統的に悔い改めの七つの詩篇(他に32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、142篇)の一つに

数えられて歌である。

 《病や問題と罪》しかし、この詩には罪への言及はない。ただ、「癒やしてください」(2節)という嘆願が繰り繰り返され、

「私は衰え、骨が恐れおののいて」(2節)という表現から、身体の屋台骨とも言うべき骨までわななき震えるような重い病を患い、

いつ癒やされるのか先の見えない中で苦しんでいた。

しかし、詩人は病気を、ただ自然の営みの中で遭遇する単なる不幸とは考えず、万物を支配しておられる神が、あえて自分に

与えた懲罰と受け取った。

人が遭遇する不幸な事件や病等のすべてが、人の罪に対する神からの罰とは限らない。

ヨブの災難や、主イエスの十字架の受難、また信仰の故に被る迫害など、苦難の原因は多様である。

イエスは盲人として生まれた理由を、「この人に神のわざが現れるため」(ヨハネ9:3)とも言われた。

だが、苦難は人に反省を促す。自らのこれまでの生き方を振り返り、このような事態を招いた原因を尋ね、

「しなければならなかったことをせず、してはならないことをしてしまった」ことに気づく。

詩人は、今の病は自分の罪に対する神の怒りの懲罰と弁え、自責の念に胸を打たれ、ひたすら神の憐れみを乞い願い、

「主よ 御怒りで私を責めないでください。あなたの憤りで私を懲らしめないでください。

主よ 私をあわれんでください。私は衰えています」(1~2節)と、必死に罪の赦しを乞い、和解を願う。

 《長引く苦悩》その詩人の願いに、神はすぐにお答えくださらない。イエスは「求めなさい。

そうすれば与えられます・・・たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と言われ、使徒ヨハネも

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださる」(Ⅰヨハネ5:14)と保証している。

だが、病状は改善せず、「私の目は苦悶で衰え」(7節)とある。目は心身の標識で、詩人の衰弱ぶりを示す。

死の恐怖に怯える(5節)彼を見て、敵意を抱く者たちは、難病は神に捨てられた証拠と嘲り、彼をさらに苦しめる(7、8節)。

詩人には、祈りが神に聞かれたようには思えない。癒しもさることながら、罪の許しと交わりの回復を願ってどれほどの時間を

経たことか。「私は嘆きで疲れ果て、夜ごとに涙で寝床を漂わせ、ふしどを大水で押し流します。

私の目は 苦悶で衰え、私のすべての敵のゆえに弱まりました」(6~7節)と訴えている。

毎夜ベットを流すほどの多量の涙を流して、と彼は言う。疲れ果て、「主よ、あなたはいつまで私を待たせるのですか」(3節)

哀願する。

詩人にとっての神は、「主よ 帰って来てください」(4節)と言えるほど、彼は神と一緒であった。

イエスが「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と言われる以前に。

彼が祈り続ける理由は、神があわれみ深い「恵みの神」(4節)であり、神を覚えてほめたたえるためであった(5節)。

 《祈りの確信》神への祈りを止めなかった詩人は、ついに神の応答を確信して快哉を叫ぶ。

病が癒されたからではない。神が祈りをお聞きくださったと確信したからである。

罪が赦され、神の憐みの中に今置かれている。「私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストに

よって、神との平和を持っています・・・神の栄光にあずかる望みを喜んでいます・・・

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます」(ローマ5:1~3)とのパウロの境地である。

なお病が続き、敵が嘲ろうと、詩人の心は軽やかで、勝利を確信し「不法を行う者たちみな私から離れて行け。

主が私の泣く声を聞かれたからだ」(8節)と宣言する。

事態がさらに悪化するように見えたとしても、私たちを最善に扱おうとしておられる神が解決の時を決めて守っておられるの

だからと、万事を神のみ手に委ねて。

「私の泣く声を聞かれたから」の「聞かれた」は確実性を示し、「私の祈りを受け入れられる」の「受け入れられる」は

繰り返し起こることを意味する。キリストの救いに与った者の祈りは、繰り返し必ず聞き入れられることを改めて確信する。