2020年6月14日 私は主をほめたたえます

私の神、主よ。私はあなたに身を避けます。どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。

詩篇7篇1節(1~17節)

 身に覚えのない非難や悪口を言われ、不当な扱いを受けることは、人生に珍しいことではない。

表題の「ベニヤミン人クシュ」が誰かは不明だが、ダビデを誹謗中傷してサウル王の嫉妬心を煽り、ダビデの迫害を企てた者である。

ダビデは、苦境からの救出よりも、我が身の潔白を神に宣言してもらうことを願っている。

  《神こそ私の避け所》サウル王の執拗な追跡からの逃亡生活も長引き、安住の地を持たぬダビデの最後の避け所が、

彼の契約の主、彼の神であった。

羊飼いもなく、獅子に襲われた羊のような無力な彼は、「私の神、主」(1、3節)の懐に逃げ込み、「私はあなたに身を避けます。

どうか追い迫るすべての者から私を救い助け出してください。彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き助け出す者もなく

さらって行かないように」(1~2節)と、神の保護を懇願する。

ダビデの神は「わが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、

わがやぐら」(詩篇18:2)であり、モーセの表現に倣い、「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私を

かくまってください」(詩篇17:8、申命記32:10)とも祈っている。

イエスも「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません」(ヨハネ6:37)と

約束しておられる。

 《神こそ私の審判者》しかし、ダビデはただ我が身の一時的な安全を、神に強請(ねだ)っているのではない。

彼は、サウルを殺害し王位を奪おうなどとは考えない。

王を殺す機会はあったが手を出すことはなかった(Ⅰサムエル24:3~7、26:7~12)。

クシュらの中傷は根も葉もない言いがかりだ。ダビデは、「もしも私がこのことをしたのなら、

もしも私の手に不正があるのなら、

もしも私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また私に敵対する者からゆえなく奪ったのなら、

敵が私のたましいに追い迫り、追いつき、私のいのちを地に踏みにじるようにし、私の栄光をちりの中に

埋もれさせてください」(3~5節)

と言い切って、自分の潔白を神に訴える。幸か不幸かよりも、神に嘉(よみ)される義か神の怒りを買う

不義かが、ダビデには何よりも重大なことであった。

だから、彼は「心の深みまで調べられる正しい神」が、審判者として「高いみくらに帰って」、

裁きを下されるようにと訴える(6~13節)。

ダビデは、神が彼の潔白を宣言し「心の直ぐなる人を救われ」(10節)、「立ち返らない者」、

「不法を宿し、害悪をはらみ、偽りを産んでい」る者たちに対しては、その害悪と暴虐とを彼らの頭上に、

彼らの脳天に戻して、厳罰に処し、ダビデらを罠に架けようと掘った穴に、彼ら自身が落ち込む(12~16節)。

だから、えん罪に腹を立て、濡れ衣に恨みを募らせることはない。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。

神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』」

(ローマ12:19)とある。

神は「日々、憤る神」(11節)である。人の犯した罪が見逃されることは一つもない。

 《神は罪人を義となさる贖い主》日々憤られる神は、「立ち返らない者には、剣を研ぎ弓を張って

狙いを定められます。

その者に向かって死の武器を構え、その矢を燃える火矢とされ」(12~13節)る。しかし、また神は、

「わたしは決して悪者の死を喜ばない。

かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ」

(エゼキエル33:11)と呼びかけ、「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」

(詩篇51:17)と約束なさった。

神は、御子キリストの犠牲によって、神に立ち帰る者の救いの道を開いてくださった。

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、

義のために生きるため。

その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」(Ⅰペテロ2:24)と、聖書は保証している。

「日々、憤る神」の前で、私たちは次々に犯してしまう己の罪深さに嘆息するとともに、それら一切の罰を

キリストがその身に引き受けてくださったという憐れみの大きさに驚きつつ、感謝し、

「私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。

いと高き方、主の御名をほめ歌います」(17節)と、ダビデと共に神に感謝し、その恵みをほめたたえる外ない。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

(Ⅰコリント10:31)。