2020年7月12日 私はなおも主を避けどころとする

主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。 詩篇11篇7節(1~7節)

 信仰の道を貫くことは容易ではない。不信者への対応よりも、案じてくれる友や家族の勧めを断り、

信仰の立場を守り抜くことの方が難しい。北風に覚悟して対応するが、太陽に心を許し正義の歩みを緩めて

しまいがちである。

 《友の助言に対して》ダビデが、71年間の生涯において、窮地に立たされたことは幾度あっただろうか。

サウル王に仕えてたが、嫉妬に狂った王に殺されかかったことは一度や二度にはとどまらない。

王となってからも息子アブシャロムの謀反に遭い都落ちせざるを得ないこともあった。

その一つを詠んだ歌であろう。

迫り来る危機に際し、友人は彼の身を案じ、もし出来るなら「鳥のように自分の山に飛んで行け」(1節)、

隠れ場所のある山に急ぎ行き、洞穴や岩の裂け目に身を隠せ、と忠告した。友人の見るところ、

事態は悪化しつつあり猶予はない。

「悪者どもが弓を張り弦に矢をつがえ暗がりで心の直ぐな人を射抜こうとしている」(2節)。

「暗がりで」とは、正義の者への謀略を指す。敵の卑怯な魔の手を意味し、彼らは「心の直ぐな」あなたに

矢を射かけようと待ち構えている。今や正義や真実は投げ捨てられ、法も通用しない。

無理が通って道理が引っ込むより仕方のない時だ。

社会の秩序を維持する基礎が破れ、正義の通らない状況では、逃げ出すしか方がないではないか。

正義を貫こうとしても、社会の秩序を維持する基盤の「拠り所が壊されたら正しい者に何ができるだろうか」(3節)、

無意味ではないかと、友はダビデに告げて、避難せよと勧める。

もちろん善意からの助言であり、ダビデを思い、彼の将来に期待しての言葉である。

だが、身を守れる安全な山に飛んで行くことは、何が正義かよりも、何が我が身を守り己の将来に益するかを

優先すべきだとする利己的な本能の声だ。

主に従って何の益があろうか、という声を、しばしば信仰者は、周囲からも己の中からも聞く。

絶望的な状況下で、「何が出来ようか」と問われ、身の安全を図って妥協の道を行くか、責任を放棄して

遁走するか、絶望して死を選ぶ等の道があろう。

しかし、信仰者は、「主に私は身を避ける」(1節)と叫ぶことが出来る。

私たちには、神の懐がいつでも開かれている(詩篇144:2)。

 《なおも神を信じて》窮地に立たされた人は、不安に駆られ、身も心も揺れ動く。

しかし、ダビデの信仰は単純で素朴だ。少年の時、同胞の兵士たちが巨人ゴリアテに恐怖していた時、

彼は「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出して

くださいます」(Ⅰサムエル17:37)と証言し、その信じるところに従って勝利した。

彼は、「拠り所が壊された」世界に置かれても、その信仰に立ち、絶望もしない。

神を己の避けどころとして、己の身を委ね、神の支配を信じて進む。

パウロは、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。

見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです」(Ⅱコリント4:18)と記しているが、

ダビデも、現状がどう人の目に映ろうと、人の目に映らない神を仰ぎ、その支配を見ている。

しかる後に、自分のなすべき判断を下す。ダビデは言う、「主は、その聖なる宮におられる。

主は、その王座が天にある」(4節)と。

地上の王の座に永遠はなく、その変遷は目まぐるしい。

しかし、神は天の玉座におられ、その高みから万事をご覧になって正義の審判を行われ、

その裁きから逃れることは誰も出来ない。

己の力を誇り、暴虐をほしいままにしている者たちの上にも、やがて捕縛の網が下ろされ、

ソドムとゴモラに下された神の怒りの「火と硫黄、燃える風が彼らへの杯」(6節)が注がれる。

 《神の御顔を仰ぎ見る》罪は人を神から遠ざけたが、義は人を正義の神の御前に近づける。

「その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる」(4節)とあるが、誰ひとり、神の目に義と

されるものはいない。しかし、「アブラハムは神を信じた。

それで、それが彼の義と認められた」(ローマ4:3)とあるように、真の神への信仰こそが、

私たちを義としてくれる。

我が身の安全を願って正義を曲げるのではない。

「主は正しく、正義を愛される」方であることを認識し、この方の「御顔を仰ぎ見る」(7節)者で

あり続けよう。

この世界は、罪に汚れ、不信仰が跋扈し、拠り所も壊れている。しかし、神の御座は依然として

揺れ動くことはない。

いかなる時も「主に私は身を避け」(1節)、正義の恵みの業を愛しておられる主の御顔を仰ぎ見、

従い続けて行こう(7節)。