2020年8月30日 神の謙遜が私を大きくする
あなたの右の手は私を支え あなたの謙遜は私を大きくします。
あなたは私の歩みを大きくし 私のくるぶしはゆるみません。 詩篇18:35~36(1〜50)
《危機に際しての祈りと神の救出 1~29節》 これは、イスラエル王ダビデが、波乱に満ちた生涯を
振り返って詠んだ神への感謝と賛美の歌である。
第一声が、「わが力なる主よ。私はあなたを慕います」(1節)で、幾多の危機に遭遇した際に、
ダビデが助けを求めたのは、時の有力者や支援してくれる王でもなく、勇猛な兵士たちなどでもない。
力ある彼の主、神である。その神の助けを、彼は恋い慕う。
どんな試練に遭遇しようと、神を見失わず、神との関係が揺るがない人には、神からの平安と希望と
慰めが与えられる。
「この主を呼び求めると 私は敵から救われる」(3節)とは、ダビデがその生涯を通して遭遇した数々の
試練の度毎に身をもって確認して来たことであって、単なる希望ではなく、千鈞の重みをもつ言葉である。
彼は神を、「主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩 わが神、わが盾、わが救いの角
わがやぐら」(2節)と賛美する。
いずれも戦いに関する比喩で、生死を掛けた激しい戦いの中で実感した表現である。
かって経験した危機は、「死の綱は私を取り巻き 滅びの激流は私をおびえさせた。
よみの綱は私を取り囲み 死の罠は私に立ち向かった」(4~5節)とあるような、ダビデを絶望の淵に
沈めるほどの厳しいものであった。
しかし、彼は呼びかけるべき方を承知していた。
「私は苦しみの中で主を呼び求め わが神に叫び求めた。
主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた」(6節)。
神は天の宮で、はるか遠くの地上のひとりの小さな者の叫び声を、聞き逃すことなく
御耳にお入れくださった。
それで「主がお怒りになったから」「地は揺るぎ動いた。山々の基も震え揺れた」(7節)。
神は躊躇なさることなく、すぐさま救出の活動を開始なさった。たったひとりの救出の願いに、
天を踏み破って駆け付けようと、風の翼に乗り、雹と稲光と雷鳴とを伴い、海や川がその底を
あらわにするほどの勢いで駆け付けられた。
「主はいと高き所から御手を伸ばして私を捕らえ 大水から私を引き上げられ」(16節)、
「主は私を広いところに導き出し私を助け出して」くださった。理由は、
「主が私を喜びとされたから」(19節)とは、何と幸いな言葉であることか。
その神の愛の中に、私たちも生かされている(ヨハネ3:16)。
信仰者は、キリストにあって義とされ神の子とされている(20~24節参照)。
私たちも、「あなたによって私は防塞を突き破り 私の神によって城壁を跳び越えます」(29節)
との経験を重ねたいものだ。
《神の右の手は私の支え 30~50節》 「神のお取り扱いは完璧、御約束のことばは真実、
主こそが盾」(30節)とは、ダビデが戦いに際して鼓舞する叫びであったのだろう。
激闘は続くが、「神は私に力を帯びさせ 私の道を全きものとされます。
主は私の足を雌鹿のようにし 高い所に立たせてくださいます。
戦いのために私の手を鍛え 腕が青銅の弓も引けるようにしてくださいます。
あなたは御救いの盾を私に下さいます」(32~35節)と、神の全面的な助けによって
勝利が与えられて来た。
その理由を、ダビデは「あなたの右の手は私を支え あなたの謙遜は私を大きくします」と記し、
その結果、神は「私の歩みを大きくし 私のくるぶしはゆるみません。私は敵を追ってこれに追いつき
絶ち滅ぼすまでは引き返しませんでした。私が彼らを打ち砕いたので彼らは立てず私の足もとに倒れました。
あなたは戦いのために私に力を帯びさせ向かい立つ者を私のもとにひれ伏させました」(35~39節)と言う。
「あなたの謙遜」との表現には驚く。ここにダビデの信仰を見る。
一介の羊飼いの少年に過ぎなかったダビデを、神は顧みて、天の高みからベツレヘムの野に降り、
彼を召し、共におられて守り助けてくださったこと数知れない。
バテシバとの罪など、神に背いたことも幾たびか。
しかし、神は、その愚かな自分を、約束通りお支えくださって今日に至る。
神の憐みと共に、その弱さや愚かさを理解してお助けくださる神の謙遜を、ダビデは知らされた。
「神はまことに謙遜でありたもう・・・キリストはご自分についていいたもうた、
『われは心柔和にしてへりくだあるものなり』と。
神がへりくだるものであればこそ、私のごとき卑しき者を顧みたまいてこれを救い賜うのである。
もし神がこの世のいわゆる大臣、大家のごとく尊大でありたもうならば、
彼は決して私のごとき低き卑しき者を顧み賜わない。」(内村鑑三)。
私たちはキリストの謙遜のゆえに十字架の尊い救いをいただいている(ピリピ2:6~9)。