2020年9月6日 天の栄光と私たちの祈り
天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。
話しもせず、語りもせず、その声も聞こえない。
しかし、その光芒は全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた。 詩篇19:1~4(1〜14)
《天は神の栄光を告げ 1~6節》 現代人の多くは、パソコンやテレビ、書籍や講義などで自然界の知識を得、
その不思議な営みを知る。
当人は、教室や快適な室内に居てであって、大自然の森や山稜に出かけたり、大海や激流に身を晒してでもない。
旧約の預言者たちは、しばしば町を離れ、人の手の入らぬ荒野に赴いて神に祈った。
ダビデも、羊飼いの少年時代以来、夜の寒さと昼の酷暑を味わい、星々のまたたく宏大な夜空が、大地を焦がす
光線を放ちつつ東西に駆け抜ける太陽の舞台に一変する不思議さに感嘆して来た。
そしてそれらの天体の運行は正確無比で、変わることがない。
彼は、それらすべてを創造し、動かしておられる神が、いかに力と知恵とに満ちておられることかと、
改めて神を賛美する。
月や太陽がいかに知恵と力と不思議に満ちているとしても、それらは被造物に過ぎず、
それらを神々として崇めるべきものではない。
崇め褒めたたえるべきは創造主の神おひとりである。大自然は、神の知恵と力を、声を発しことばで
賛美することはないが、昼も夜も、創造主を証しし、その栄光を地の果てにまで知らせていると、詩人は言う。
「自然の証しは沈黙である。しかしながら沈黙は大雄弁である。その無声の声は全地に往き渡り、
その無言の言は地の極にまで及ぶ。所として天の啓示に与り得ざるはない。
チベットの山奥、サハラ砂漠の中、太平洋の大涛の上、およそ人の響きの至らぬ隈ほど、
蒼穹の使信はかえって益々さやかである」(藤井武)。
望遠鏡の先、顕微鏡の下に、また自然界についての種々の観察を通して、人は、神の知恵深さを発見して
神を賛美すべきである。
それらの研究を通して知り得た不思議は、人の知恵を示すものではなく、神の偉大さを示す。
《主の教えはたましいを生き返らせ 7~10節》 無言の書である自然の告げる神の栄光を語った詩人は、
次に有言、有声の文書である聖書に目を向ける。
神ご自身のみことばは、無言の書である自然や歴史の意味合いを正しく教えてくれる。
詩人は、大自然を創造し摂理をもって統治しておられる神を、ヘブル語「エル」を用いて
力ある方として紹介した。
そして7節以降は、律法の付与者としての神を、恵みと憐れみに富む方として
ヘブル語「ヤハウエ」(主)を使用している。
創造主の神は、この壮大な世界のすべての管理を、卑小な私たち人間に委ねてくださった。
先にダビデはそのことを「人とは何ものなのでしょう。
あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたが顧みてくださるとは」(詩8:3~4)と詠っていた。
神は、その管理者への指針として、信仰の民イスラエルに、律法をお与えになった。
律法は、人の心に神への畏怖の念を起こし、人に神のみこころに従おうとする思いを与え、
神との関係を永遠に保つようになさった(9節)。
律法は「完全で、(それを信じて奉じる者の)たましいを生き返らせ、浅はかな者を賢くし、
人の心を喜ばせ、人の目を明るくする」(6~7節)。
それゆえに、律法は「金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘い」
(10節)と表現し賛美する。
《私のことばと思いが受け入れられますように 11~14節》 詩人は、神の律法に思いを巡らせると、
律法に照らして自分の罪に気づかざるを得ない。
神の偉大さを想い、神の教えの完全無欠を讃え、それで終わりとは出来ない。
神に向けた目は、転じて神の前に立つ自分に向かい、自己を点検して「自分の過ちを悟る」(12節)。
そして、「どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
あなたのしもべを傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください」(12~13節)と、神への祈りに導かれる。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18)との警告もある。
傲慢になって神への畏怖の念を失い、利己的な罪の心に支配されることにならぬようにと、
「あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて、全き者となるでしょう」(13節)と、
詩人はひざまずいて祈る。
己の弱さや罪を知るこの詩人の姿勢に倣い、私たちも「私の口のことばと、私の心の思いとが、
御前に受け入れられますように。主よ、わが岩わが贖い主よ」(14節)と祈ろう。