2020年8月16日 私は常に主を前に

私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

詩篇16:8(1〜11)

 《神よ、あなたこそ私の主 1~4節》 「ミクタム」とは「黄金の、碑文の」詩篇等を意味する詩と

言われるが確かなことはわからない。

この16篇は神を想って歌った豊かで見事な信仰の詩である。

信仰篤い詩人でも「神よ、私をお守りください」(1節)と祈らざるを得ない苦境に立たされる。

神を信じれば万事順調とは限らない。神は愛する者に訓練を与え、その信仰を鍛錬される。

その経験を通して、詩人は、神を「エル:力ある神」と言い、「ヤハウエ:慈愛に富む契約の主」と呼び、

この方こそが私を守ってくださる方で、他にはないと告白する。

「あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません」(詩篇73:25)。

信仰とは、様々な願望を神に訴えて満たしてもらうことではない。

真の信仰は、創造主の神を自分の仕えるべき主と仰ぎ、生涯をささげるべき方として迎えることを意味する。

彼はその信仰をひとりで得たのでもなく、守り続けているのでもない。

同じ信仰に立つ聖徒たち、教会の兄弟姉妹方を尊敬し、その交わりを大事にすることで信仰が支えられ、

励まされ、また養われる。この生徒の交わりという教会生活によって、神を知る喜びを味わう。

「ほかの神に走った」(4節)は「ほかの神々と取り換える」とも訳せるが、教会から離れることは、

真の神を偶像の神々と取り換えてしまう結果を生む。

だが、詩人は、神により頼む共同体の中に身を置き、真の神を他の神々と取り換えたりは断じてしないと宣言する。

 《私は、主を前に置く 5~8節》 偶像崇拝者たちが何を言おうと、詩人は、「主は私への割り当て分また杯。

あなたは私の受ける分を堅く保たれます。割り当ての地は定まりました。

私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です」(5~6節)と、主を信じる喜びを叫ぶ。

カナンの地を民それぞれに分割して割り当てる時、レビ族が相続したのは、陽当たりのよい地でも、

泉の湧く地でも、緑豊かな山地でもない、神に奉仕する役目だけであった。

何とも心細いと、不信者は判断するだろう。

だが、地に種を蒔いて多くの実を収穫するように定められたのは神であり、大地を創造し、太陽と雨と季節を

与えるのも、神である。

万物は神の御言葉から生じる。宗教改革の先駆者の殉教者サボナローラは、「万物の所有者である神を持つ者は、

すべてを持つ者である」と言った。

詩人は、主なる神こそが私の畑、私の飲食物だと言う。

神には不作もなく、「あなたは私の受ける分を堅く保たれます」(5節)と、確かな収穫の保証を喜ぶ。

ただ、多くの恵みの賜物だけに終わらない。神は、愛する者の祈りに応え、必要な助言や励ましを与え、

導いてくださる。

だから詩人は、「私は、いつも主を前にしています。

主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません」(8節)と宣言する。

右とは保護者の立つ位置を指す。「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、

ご自分のひとみのように、これを守られた」(申命記32:10)という先祖の経験を、詩人は今、味わっている。

 《私は喜びに生きる》 詩人は、主に仕える嬉しさを、「それゆえ私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。

私の身も安らかに住まいます」(9節)と記す。

「いつも主を前にしている」(8節)いう堅い信仰は、硬直した生活となるのだろうか。

そうではない。神は、愛する者に、溢れ来る喜びに平安と楽しみを、神はお与えになる。

しかも、その喜びは、死も奪えない。

「あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないから」(10節)

との預言は、キリストの復活によって成就した(使徒2:31~32)。

詩人の幸いな思いは、よみも墓をも突破して、天のみ国に至るまで続く。

救い主が、「いのちの道」を設けてくださるのだから、と。

私たちはイエス・キリストの十字架と復活に与っている。

「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。

満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります」(11節)との

詩人の告白に、その成就を知っている者として、更なる確信をもって同意する。

世が与える楽しみや喜びは、人を心底から喜ばせることも出来ず、どこかに不安を伴い、やがて消えて行く。

だが、唯一の神から賜る喜びは、満ち溢れる喜びであり、「楽しみが・・・とこしえにあ」る(11節)。