2020年9月27日 あなたは私に答えてくださいました

主よ あなたは離れないでください。私の力よ 早く助けに来てください。救い出してください。

私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。救ってください。

獅子の口から野牛の角から。  詩篇22:19~21(1〜31)

この22篇は、主イエスが十字架上で叫び祈られた言葉を記しており、またその時の状況を預言した詩として

知られている(1、7~8、18節)。

 《苦難の中からの嘆願 1~21節》 多くの人の罪を背負って身代わりの死を遂げる主イエスの苦悶には

及びもつかないが、詩人は自分が置かれている苦境を、必死に神に訴えている。

「犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。

私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。

彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします」(16~18節)と。

詩人の苦難は、ヨブの経験した苦悩と似ている。ヨブは幸せな時は、神が味方であった。

だが財産を失い、家族を失い、病を得、友からの理解も得られない中で、神からも見捨てられたと思う時、

彼は自分の生まれた日を呪わずにはいられなかった。

信仰者にとって最後の拠り所は神であり、神と共にあるならば一切の苦悩にも耐えることが出来る。

だが、その神に見捨てられたと思わざるを得ない時、信仰者は絶望する外はない。

にもかかわらず、詩人は自分を捨てたのではとも思われる神を「わが神、わが神」と二度も呼びかけ、

「どうして私をお見捨てになったのですか。

私を救わず 遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。わが神 昼に私はあなたを呼びます。

しかし あなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません」(1~2節)と訴え続ける。

神は、依然として詩人の訴えを黙殺したままである。

だが、詩人は、そのような神を罵倒し離れ去ることをせず、なおも「わが神」と呼んで訴え続ける。

それは、詩人の先祖たちに神に信頼して助け出された過去の経験があるからだ(3~5節)。

その厳粛な事実をしっかり受け止め、自分の今の惨めな状況や救出の見込みがないからと感情的になって

神を罵倒したりはせず、なおも神の救出に期待し、「あなたは聖なる方 御座に着いておられる方

イスラエルの賛美です」(3節)と呼ぶ。

しかし、詩人は自分を省みると、聖なる神に祈りを聞いていただけるような身ではなく、

「私は虫けら」(6節)と言わざるを得ない。

しかし、その私を、神よ、「あなたは 私を母の胎から取り出した方・・・母の胎内にいたときから

あなたは私の神です」(9節)と、詩人神に迫り、「助ける者がいないのです」(11節)と訴え、

自分の窮状を告げ(12~18節)、嘆願する(19~21a節)。

 《感謝と賛美 22~31節》 絶望の夜は明け、詩は一転して希望の朝の輝きを歌う。

詩人は、神が自分の願いについに答えてくださったことを確信し、喜びの声を上げて人々に証しし、

神への感謝の賛美をささげる(22節)。

詩人が「わたしの神」と呼んだ先祖の神は、自分のような「貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず、

御顔を彼から隠すことなく、助けを叫び求めたとき 聞いてくださった」(24節)と賛美する。

苦難の夜は永遠のように思われ、恐怖の闇は神がおられないかのように人に感じさせる。

しかし、過ぎ去ってみると、神はいつものように目の前におられる。その経験を、詩人は仲間と分かち合う(23節)。

そして改めて、詩人は、その経験と賛美しようとの思いは、すべて神からの恵みに外ならないと気づき、

「大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのもの」と告白し、目を周囲に向け、地の果てに至るまでの

すべてを統治しておられる神に思いを馳せ、「地の果てのすべての者が思い起こし 主に帰って来ますように。

国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように」(27節)と祈る。

目を世界へと広げた詩人は、最後に縦の未来に広げ、知らずして預言を告げる。

やがて、信仰の民の子孫たちが、「生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。

主が義を行われたからです」(31節)と。

それは、神のひとり子が人となられて到来し、十字架の犠牲によって人を義とされ、神との和解を得る道を

開かれるとの預言であった。

嘆きと苦悩に満ちた嘆願に始まったこの詩篇の終わりは、更なる絶望と失意の暗闇で終わるかと思いきや、

全く逆の、神からの救済の喜びと賛美、さらに希望の預言をもって終わる。

幸いなるかな、主なる神を「わたしの神」と呼ぶ者は。