あなたは幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます。いのちを彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく。御救いによって、彼の栄光は大いなるものとなり、威厳と威光をあなたは彼の上に置かれます。あなたは、とこしえに彼に祝福を与え、御前で喜び楽しませてくださいます。         詩篇21:3~6(1〜9)

《神は祈りに答えたもう 1~7節》 詩篇20篇が王の出陣前の祈りであったが、続くこの21篇は祈りを叶えられた感謝と賛美の歌である。ダビデ軍は、アンモン軍を支援したアラムの戦車兵7百と騎兵4万を破る奇跡的勝利を収め、祈りに答えたもう神を褒めたたえている。民は、王を崇めるのではなく、兵の勇猛さの結果だと誇るのでもない。この大勝利は、王を民にお与えくださった神が、王の祈りを叶えてくださったからに外ならないと、神を賞賛し、感謝する。「あなた(神)は彼(王)の心の望みをかなえ、唇の願いを退けられません・・・いのちを彼はあなたに願い、あなたは彼にそれをお与えになります。いつまでもとこしえまでも限りなく」(2、4節)と喜びに溢れて感謝する。国を救ったのは、王でも民でもない、主なる神であり、「栄光は神に」である。

神の祝福は、辛うじての勝利ではなく、豊かな勝利である。「あなたは幸いに至る祝福をもって彼を迎え、頭に純金の冠を置かれます」(3節)と、その祝福は溢れるばかりの豊かなものであることを歌わずにはおられない。純金の冠とは、勝利の金冠か、分捕りものの王冠のことだろうが、神自らが王にその栄光の冠を授けてくださったと歌う。戦いは激しく、勝敗はつきにくく、いのちさえ落としかねなかったが、「いのちを彼(王)はあなた(神)に願い、あなたは彼にそれ(いのち=勝利)をお与えにな」った(4節)と賛美する。このような国家の命運を背負って幾多の戦いを重ね、信仰によって勝利に導かれた王は、「御救いによって彼(王)の栄光は大いなるものとなり、威厳と威光をあなた(神)は彼の上に置かれ」(5節)、王としての尊厳を身につけて行く。王は、自分をではなく神を信頼し、自らの功績によってではなく神の憐みによって揺るぐことのない存在とされる(6~7節)。

 《神が戦ってくださる 8~12節》 神は万軍の主、戦場を支配する怒れる義の神である。その御手は丘の陰や草むらに隠れる敵を探して引っ張り出し、燃える炉に投げ込むようにして彼らを一掃される(8~9節)。私たちがいかに弱小であろうと、神の側に立つ限り、恐れ慌てることは不要だ。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)とある通りである。いかに悪知恵に長けた者であろうと、「彼らがあなた(神)に対して悪を企て計略をめぐらしても成し遂げられません」(11節)。神は、背を見せるように逃げ行く敵に先回りし、彼らの正面から矢を射かける恐ろしい方である(13節)。

 誰がこの真の神に敵対できるだろうか。人だけではない、疫病や自然災害も、神の御手に逆らえる力を有するものは皆無である。万軍の主の怒りは恐ろしい。しかし、私たちはこの方に、以前は逆らい、敵対していた。イスラエルの民も同様に神に逆らった。しかし、あわれみの富む神は、災いの中で神に助けを求める民の叫びに応えて救いの手を伸べてくださった(詩篇106:39~46)。そして今、私たちは、キリストの十字架の贖いに与る身とされている。何と感謝なことか。

《ただ神への感謝のみ 12節》 神はあわれみに富み給う方であるだけではない。大能の力ある神である。神は、その大能を、神に救いを求める者たちのために行使される。それ故に、ダビデと民は神をほめたたえる。「主よ。あなたの御力のゆえに、あなたがあがめられますように」(12節)と。これを「主よ、立ち上がってください。み力をもって」とも訳せる。苦難の中にいる者の祈りであり、その祈りに神はお答えて立ち上がられる。民は、勝利を得、歓喜に酔いしれて沸き立つ。だが、その勝利は、神からの賜物であることを忘れてはならない。

 私たちの人生においても、幾多の戦いがあり、困難がある。しかし、勝利の主、大能の神が、私たちの味方である。恐れ慌てることはない。「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:18)とある。神に信頼して祈ろう。そして、勝利の暁には、我が身を低くして神のお恵みを賛美し歌おう。

 栄光の主を迎えよ 2020.10.11礼拝説教

門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とはだれか。強く力ある主。戦いに力ある主・・・万軍の主 この方こそ栄光の王。セラ

                             詩篇24:7~10(1〜10)

本篇は、ダビデがエルサレムを首都として整備し終えて、そこに神の契約の箱を運び込む際に、栄光の主を賛美した歌と言われている(Ⅰ歴代15:1~29、参照Ⅱサムエル6:12~19)。神は、万物の創造主にして世界の主であられる(1~2節)。その聖なる神の前に立ち得る者は誰かとその資格を問い(3~6節)、その栄光の神を迎える喜びを歌っている(7~10節)。

 《主なる神こそ全世界の主権者 1~2節》 ダビデは先ず、主なる神は創造主であると讃える。神は、この世界の見えるものも見えないものも、それらすべてを創造なさり、そこに住む人間の営みのすべても神のご支配の下にある。神は、「闇が大水の面の上にあ」った(創世記1:2)原初の海に、基を据えて大地を創造なさった。さらに川の流れ下る山々をも大地の中に設けられ、海に魚、地には動植物、空には鳥を創造なさり、太陽や月、それに星々を備え、雨や季節を配置なさり、最後に人間を創造なさった(創世記1:6~31)。それゆえ、全地は創造主の神のものであり、全地の森羅万象のすべては神の統治権の下にある。最後に創造された人間に、神はそれら万物の管理をお委ねになった。万物の所有者である神が、万物を統治なさるのは当然のことだ。私たちも、ダビデと共に、「地とそこに満ちているもの 世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」(1節)と、告白する。それは、私のいのちも所有物も、家族も立場も、みな神の所有であると認め、神のみ旨に添ってそれらを用いると告白することでもある。

《その神の前に立ち得る者 3~5節》 しかし、栄光の主の聖さを思えば、自分には、主の契約の箱を納めたシオンの山の聖所に入れる資格があるのだろうかと自問する。神の前に立つ資格は、「手がきよく 心の澄んだ人。そのたましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人」(4節)である。手は行動を、心はその本源を指す。心も言動もきよく、神にも人にも誠実であることがその資格だとすれば、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3:23)とあるように、誰ひとり神の前に立つことは出来ない。ただ、その資格のない自分であることを弁え、自分の罪を悔い改め、神の赦しを乞うならば、「主から祝福を受け 自分の救いの神から義を受ける」(5節)。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、イスラエルという名を与えられたヤコブも、多くの罪を犯し、失敗を重ねた。しかし、その度毎に、神からの許しを求め、神の約束を信じて従い続けた。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)とあるように、神への畏れと崇敬に生きる者は、「主から祝福を受け 自分の救いの神から義を受け・・・神を求める者の一族・・・ヤコブである」(5~6節)と言われる。彼のすべての罪は、救い主イエスの十字架によって完全に贖われるからである。

《栄光の主の到来 6~10節》 栄光の主の契約の箱を迎える者の吟味を終え、いよいよ都入りに臨む。都は歓呼の声に満ち、「ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った・・・ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた」(Ⅱサムエル6:14~15)。ここに5度も「栄光の主」とあり、「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる」(7、9節)と、繰り返し呼びかけられる。門を大きく開き、栄光の主を、永久に迎え入れ続けよと。ダビデの一千年後、使徒ヨハネは、赦しと恵みとをもって来臨された栄光の主キリストが、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)と紹介している。絶望や苦境にあろうと、栄光の主を迎えるなら、主は「いつでもその(絶望の)覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(Ⅱコリント3:16~18)との希望を持とう。私たちの主は、「強く力ある主。戦いに力ある主」(8節)である。ただし、その力は世俗の勝利ではなく、十字架を負う勝利であることを忘れてはならない(参照黙示録19:5~8、11~16)。

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