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人々とイエスとペテロ 2022.04.03礼拝説教

しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。

ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。  ヨハネ福音書18:18(12~27)

 

《イエスを捕えた人々の反応》

 イエスをゲッセマネで逮捕した人々は、祭司や律法学者たちの下役の者たちで、イエスが

「わたしがそれだ」と言われると、「後ずさりし、地に倒れ」(6節)るという不思議な経験をした。

また、ペテロに右耳を切り落とされた者が癒されたことも目撃している(ルカ22:51)。

しかし、救い主に直に接し、奇跡を目の当たりにしたが、彼らは感動もせず、冷たく無関心であった。

その時は怖れを覚えもしただろうが、過ぎれば考えようともしない。

今は、何事もなかったかのように、イエスをカヤパの官邸に移送する役目を待って、寒さしのぎの焚火を

囲み、世間話に興じていた(18節)。

「奇跡を見るなら信じるのだが」と主張する人もいる。

だが、信仰や真理に無関心な人は、奇跡にも気づかない。

奇跡そのものを非科学的、あり得ないことと否定する。

見えるものしか信じないと言う者は、見たとしても、あり得ないこととして無視し、自分を科学的だと

思い込んでいる。

彼らは、あの福音の種を受け付けない「道端」(マタイ13:4)のように、主イエスに無関心である。

自分の弱さや罪深さ、無知に気づかず、神への畏れを欠いた心は、私たちの以前の姿でもある。

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む」(箴言1:7)という大事な言葉を改めて

思い知らされる。

 

《主イエスの姿勢》

 神の御子は、犯罪人として捕縛されて連行され、不正な裁判官の前に立たされ、侮辱とひどい扱いを

受けられた。

御子は、彼に判決を下そうとしているアンナスやカヤパたちを、やがて自ら裁くことになる方であるばかりか

すぐにでも、この不当な扱いを覆すこともお出来になる。

しかし、主は、ご自分を苦しめている不敬虔な者たちの救いのために、ご自分が苦しむことを選んでおられる。

感謝も理解もされず、願われもせず、ただ憎悪と悪意、あるいは無関心でしか接しない者たちのために

十字架ぬ向かわれるキリストの行動は、人の理解を越えた世界で最も美しい愛の姿と言えよう。

そのことを、聖書は、「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。

正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは・・・あなたがたを神に導くため」(Ⅰペテロ3:18)であり、お救い下さろうとお心に定め

自ら進んでそうなさったのだと解説している。

また「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。

それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)とも説明している。

何と有難い計画であり、私たちは何と大きな愛を受けていることか、感謝の言葉も見つからない。

 

《ペテロの失敗》

 主イエスが裁判にかけられている間、「あなたのためなら、いのちも捨てます」(13:37)と大見えを切り

「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)とまで言ったペテロは

どうしていたのか。

彼は、ゲッセマネでは刀を振り回してイエスを守ろうとし(10節)、イエスを離れようとせず

「イエスについて行った・・・イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入った」(15節)。

彼の決意を示す勇敢な行動であった。

しかし、中庭で、「しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。

ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた」(18節)とある。

彼の主を捕縛した者たちの仲間を装って暖を得ていた。

イエス処刑の裁判中にである。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。

霊は燃えていても肉は弱いのです」(マタイ26:41)、「立っていると思う者は、倒れないように

気をつけなさい。」(Ⅰコリント10:12)等の警告を、ペテロは守れなかった。

彼の失敗は、私たちも経験する。イエスの弟子訓練は無に帰したのか。

しかし、「ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた」(27節)。

その鶏鳴は、ペテロに、自分の失敗の予告とその回復のために祈ってくださったというイエスの言葉を思い出させた。そして、主イエスの慈しみ眼差しに、彼は泣いた(ルカ22:31~34、60~62)。

彼は、イエスを仰いだ時、3年余の主イエスと共に歩んだ日々の思い出の数々に一挙に包まれたことだろう。

彼の失敗と主の憐れみによる回復の事例が聖書に記されていることは、すべてのキリスト者への警告であり

また慰めと希望である(へブル13:5)。